ゲルハルト・リヒター展に関するメモ

ゲルハルト・リヒター展に行ってきた。国立近代美術館での展示は既に観ていたけれど、豊田市美術館の展示はまた別の味わいがある。何より天井が高いし、空間も広い。それでも時々手狭な印象があるのはもう無い物ねだりというものだ。

それにしても随分沢山の観客が来ていて、リヒター人気は愛知県でも変わらない模様。この人気は一体何なのだろう?

今日は愛知淑徳大学准教授、荒川徹氏のレクチャーもあり、実はそれが目的でもあった。

リヒターにかんする書物は多く出ているようだけど、個人的には『写真論/絵画論』というインタビュー本しか読んだことがない。しかも、煎じ詰めれば「売れっ子で居続けたい」、みたいなことを言っていた記憶しかなく、印象としては「実は俗物」という感じだった。

──というようなこともあって、一体どのようなお話が聞けるのかと楽しみにしていた。

結果。

リヒターの印象は基本的にはやっぱり俗物(笑)。

荒川氏の議論は、アメリカのポップアート、とくにウォーホルを意識した作品テーマと、リヒターと協働製作もしていた最初の妻でアーティストのイザ・ゲンツケンの影響を考えるというもの。

荒川氏が述べる、ポップアートと同じような作品テーマを扱いながら、そこから一歩引いたような、「物質的な提示とも異なる偽の深い残響をもち浸水したような芸術」・・・なんだか手元のメモが怪しげ過ぎるけど(笑)、要はウォーホルのアートが言ってみれば「そのまんま」であるのと違って、リヒターの作品にはもっと読み込みの可能な余白のようなものがある、ということだろう。

つまり、それはある種の「意味の構造」ではないか。

そう考えると、いくらかスッキリする。示唆的なのは、作品〈ヴァルトハウス〉Waldhaus(2004)の解説にあるかつてのリヒターの言。曰く「自然は意味も恩寵も同情も知らない。(中略)まったく精神を有さず、我々とは完全に反対のものである。絶対に非人間的です。」この解説はさらに、わたしたちは非人間的な自然の世界を、美醜や崇高、不気味さといった人間の感覚に当てはめがちですが、時に普遍的とみなされるこうした美学をリヒターは相対化してみせる──なんて有り難がっているけれど、これはどちらかというと、わたしたちが「意味の生き物である」ことを示唆しているような気がする。そうすると妙に先ほどの話に合点がいくところで、この即物的な態度は、80年代辺りのリヒターの作品、あるいはさらに前のウォーホルの作品にも通じないだろうか。詰まるところリヒターというのは、意味ありげな振る舞いが上手な作家、というわけだ。そしてとても絵が上手い。ある意味では、彼が作り上げた「意味のメカニズム」の上でわたしたちは転がされているようなものなのかもしれない。

と考えて見て、フォトペインティングからアブストラクトペインティングへの流れが、その作品の面ではなくて、構造にあるのではないかと腑に落ちた。

最近は、自分自身がその意味の構造を意識しているからかもしれないが、具象的な絵画であるにもかかわらず、ある意味ではその意味作用は、そうした(抽象的な)「構造」から生まれるわけで、それを意識的に扱ってきたのがリヒターの作品、ということになるだろうか。その構造の上で、わたしたちは深刻なテーマの報道写真をみながら、まるで無関係などうでもいい事を連想しつつ、ロックスターみたいだとか、広告のオシャレな写真みたいだとか、その深刻さを脱臼された状態でみる。これはいかにも80年代らしくもある。

〈ビルケナウ〉Birkenau(2014)がその意味では、構造が際立つアブストラクト的志向性からややずれた印象がある、つまり意味作用を意識的に方向付けているように見えるが、その辺について荒川氏は、現在の妻が欧州の画家らしい画家、だったかな?保守的と言っていいかどうかわからないが、かつての妻イザ・ゲンツケンに比較して尖っていないという意味だろうと思うけど、その辺りの影響を見るようだ。なるほど。行く先々で女の影あり。

しかし、人間というのは変わるもので、例えば911を扱った作品もリヒターにはあるとおり、そのような事件を契機に志向性を変える可能性もあるだろう。それに、相手によって変わることもあれば、自分(あるいは相手)が知らないうちに変わっていて相手との間に溝ができてしまっていることもある。そんな変化の表れが一緒にいる女性に象徴される場合もあるだろう。私としては女性の影響は見逃せないのは当然としても過剰にみるのは危うい気がする。

ともあれ、あれこれ考えて見て・・・リヒターが描いたビルケナウの真意は、やっぱり「分からない」。

身も蓋もありませんな。

とはいえ、まだまだ色々な議論がまだ出てくることには違いないし、それがまた想像力を刺激してくれそうなことも間違いない。こんなメモも早めに片付けた方がいいくらい、「分かる」日が来るのかもしれない。そうなることを願いつつ。

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